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幕府運上所の顛末

 柴田剛中の尽力で慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開港した兵庫港は、旧湊川から旧生田川沖が泊地で明らかに神戸港(明治25年まで神戸と兵庫は別の港)でした。しかし、幕府時代は、諸外国に兵庫開港を約束し、兵庫奉行支配の運上所だったため、兵庫開港、兵庫運上所としました。

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 12月9日、6年ぶりに参内した岩倉具視が「王政復古の大号令」の勅書を読み上げ、天下の万機は天皇の御親裁となりました。
 政権の後ろ盾を失ったが、柴田剛中は兵庫に留まり、西国新街道工事落成の報告を受け、居留地の造成、下水・常夜灯工事の指揮等、開港地整備に努めていました。

 翌慶応4年正月、柴田剛中は税館で領事との年賀を交わしました。
 1月3日、ついに徳川と薩長連合の鳥羽伏見の戦いが始まったが、徳川勢は朝敵となって士気低落、6日には完全に敗退しました。徳川慶喜は近辺の幕府軍艦を残らず大坂へ集めさせ、船で江戸へ逃げ帰りました。
 伏見、淀、枚方に続き、7日にはとうとう大坂にも火の手が上がり、在坂の公使は各軍艦で急遽兵庫へ避難を開始しました。


 一方、柴田剛中は、6日の徳川勢敗走の報より兵庫脱出を決意しました。剛中は、9日税館に出勤後上陸してきた英公使からの申し入れにより、税館を仮の各国公使館とし、警護は各国で責任を持つことを決め、即時に貸渡しました。各国公使に兵庫引き払いを告げ、不在中の当所警護を依頼しました。
 10日の剛中兵庫脱出で何とか維持してきた幕府運上所は外国公館と化し、開港後1か月余りで兵庫・神戸は無主の地となりました。

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                            柴田剛中(右端)(ライデン大学蔵)