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マッチの輸出

 
 マッチ工業は東京にはじまりましたが、神戸でも大阪・名古屋とほぼ時期を同じくして、明治10年にマッチ工場を創設しました。明治11年(1878年)には清国向けにマッチ輸出がはじまり、マッチ工業は急速に拡大しました。輸出産業としての地位を固めるのは明治20年代を迎えてからでしたが、その中心は東京から大阪・兵庫に移りました。そして、神戸におけるマッチ輸出は、茶・米に次ぐ第三位の座に躍り出ました。

 マッチの輸入は、明治2年には早くも522円、明治6年には21,355円、明治9年には95,797円のマッチが輸入され、その普及の早さが伺われます。しかし、明治10年にはこれが42,905円に半減しました。さらに明治11年には輸出20,400円に対し、輸入が53,956円、明治12年では輸出83,588円、輸入34,050円と逆転しました。明治13年には輸出360,967円に対し、輸入はわずか1,660円となり、国産品が舶来マッチを圧倒し、外貨獲得の担い手になりました。舶来品の製造技術をまたたく間に消化し、あっという間に輸出に振り向けたのです。
 明治11年に初輸出を果たした20,400円分のマッチは、神戸港から積み出されました。輸入超から輸出超へと大きな力を発揮した神戸のマッチ業界は、政府の関与しない自己資本によるものでした。自己資本であるからこそ収支を綿密に計算し、開港場神戸をめざして流れ込んでくる安い労力を利用しました。加えて、神戸は薬品輸入や材木の集荷に便利な地の利がありました。それに中国、東南アジア貿易の実権を握り、金融に強い中国商人、いわゆる華商の存在があります。こうした条件が整い、神戸は、全国各地のマッチ業界に打ち勝ったのです。

 当時、日本に進出してきたのは、スウェーデン製のマッチでした。いわゆる摩擦マッチと呼ばれるもので、小箱の側薬に赤燐を使用した安全マッチを発明しました。この発明から1855年に「スウェーデン式安全マッチ」として製造し、販売を開始しています。このマッチは、明治4年から7年頃までは小箱ひとつが3銭という高い値がついており、明治7年の米価一升が7銭3厘であるから、その高値に驚かされます。

 

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                 マッチ製作作業