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ホーム > 神戸税関 > 広報広聴室からのお知らせ > 解説「神戸港開港回想ウォーキングマップ」

解説「神戸港開港回想ウォーキングマップ」

開港

 1868年1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫奉行柴田剛中は、この日のために急いで建築された運上所において、まず運上所を開き、そこでイギリス、アメリカ、フランス、オランダ等の公使、領事の出席のもと厳かに開港式典を行いました。
 正午、万国旗と日の丸が掲げられた英米艦隊18隻から一斉に祝砲が撃たれ幕府軍艦3隻が応報、合計21発の礼砲が4度鳴り響いたと記録されています。

モデルコース

歩行時間約50分

 三宮(三ノ宮)駅出発(9分)―フラワーロード・加納宗七の像(7分)―神戸税関本関庁舎・広報展示室(14分)―網屋吉兵衛の顕彰碑―海軍操練所跡碑(神戸港新港第1突堤から第3突堤)―神戸税関発祥の地碑(7分)―伊藤町筋―神戸市立博物館(新港ビル、旧居留地15番館、煉瓦造下水道、旧神戸証券取引所)(9分)―三宮神社(神戸事件)(4分)―元町

 三宮神社(神戸事件)の後に旧ナショナルシティバンク、海岸ビル、メリケン波止場まで行き、元町に向かうと約70分のコースになります。

 メリケン波止場から北進して栄町通を西進し、旧第一銀行、旧三菱銀行の前を通りJR神戸駅または阪神西元町に向かうと約90分のコースになります。近代化産業遺産の見学も全て完了します。

フラワーロードと加納宗七

 フラワーロードは、明治初期まで生田川の水路でした。旧生田川は、布引の滝から加納町、神戸市役所前をとおって神戸税関のあたりで海に流れ込んでいました。旧生田川は普段は枯れ川でしたが、大雨が降ると居留地に氾濫し、土砂を港域に押し出しました。そのため、堤防の補強が外国居留民の強い要求になったので、県は抜本対策として、生田川を現在の位置に付け替える計画を立てました。
フラワーロードの写真  
 フラワーロード

 工事は、和歌山出身で、神戸西之町(海岸通4丁目)の材木商「加納宗七」が請負い、開港から3年後の1871年(明治4年)に、わずか3カ月で付替工事を完成しました。旧生田川の中央には道路が造られ、周辺を宅地に整備し、南端は運上所用地とされました。この中央道路以西が現在の加納町で、地名は加納宗七に由来しています。
 フラワーロードの正式名称は、県道30号新神戸停車場線というのだそうですが、フラワーロードと呼ばれる以前には税関線とよばれていたこともあるようです。三ノ宮駅より北側のフラワーロードの歩道には青銅色のプランターが置かれていて、プランターの4面は、初代神戸税関庁舎の図柄の上部に「月1年6治明」、下部に「関税戸神」、右側に「FLOWER ROAD」、左側に「ZEIKANSEN」の文字が刻まれています。
フラワーロードのプランターの写真  
 フラワーロードのプランター

   フラワーロードの西側の東遊園地には、加納宗七のブロンズ像があり、その前には旧生田川をイメージした水路が造られています。水路には、旧生田川に架かっていた加納橋の欄干もあります。
加納宗七の像の写真 水路の写真  
 加納宗七の像      旧生田川をイメージした水路

神戸税関本関庁舎・広報展示室

 現在の神戸税関本関庁舎は、1999年(平成11年)3月末に竣工した3代目の庁舎です。
 3代目庁舎は、みなと神戸のランドマークとして、長く市民の皆様に親しまれてきた時計塔のある2代目庁舎を保全し、2代目庁舎に連続するかたちで新館を増築、船をイメージした庁舎に生まれ変わりました。
 2代目庁舎のロの字の中央部にあった2層吹き抜けの業務空間と西側の壁を撤去したあとの噴水と緑のある中庭は、市民の皆様が自由に出入りできる空間として、開かれた税関、親しまれる税関を象徴する場所となっています。
 2代目庁舎部分を旧館、増築部分を新館と呼んでいます。旧館1階にある広報展示室には、「安政の五カ国条約」や運上所を改築した初代神戸税関庁舎の模型など開港にまつわる品物も展示しています。
 この庁舎は、2007年(平成19年)11月、神戸港の港湾施設や旧居留地のビルらとともに、経済産業省から地域活性化に役立つ近代化産業遺産「商業貿易港として発展し続ける神戸港の歩みを物語る近代化産業遺産群」に認定されました。
3代目庁舎 安政の五カ国条約の写真  
 3代目神戸税関本関庁舎              安政の五カ国条約(広報展示室)

安政の五カ国条約(神戸税関広報展示室)

 1853年7月(嘉永6年6月)、米国大統領の親書を携えたアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、2隻の蒸気船と2隻の帆走船を率いて浦賀に入港し、開国を要求しました。さらに翌1854年2月(安政元年1月)には、軍艦7隻を率いて来航し、艦隊を羽田沖まで進めました。
 2度の黒船襲来に徳川幕府は、日米和親条約に調印し250年守ってきた鎖国の扉を開き、下田と函館において来航船舶への食料・燃料の補給を、下田に外交官の駐在を認めました。
 日米和親条約に基づいて、初代駐日米国総領事として下田に着任したハリスは、江戸に乗り込んで強引に幕府と通商交渉を進め、1858年7月29日(安政5年6月19日)、神奈川沖の米艦ポーハタン号で、全14条からなる「日米修好通商条約」と7則の「附属貿易章程」の調印を行いました。
 条約第3条には下田、函館両港のほかに、1859年7月4日に神奈川と長崎を開港、1860年1月1日に新潟を開港、1863年1月1日に兵庫を開港すること。1862年1月1日に江戸を開市、1863年1月1日に大坂を開市することが規定されていました。
 なお、貿易章程には、税率のほか貨物の輸出入手続、船舶の入出港手続、荷卸の取締り、密輸の罰則などが規定されていました。
 1858年8月(安政5年7月)には、蘭、露、英の各国、翌々月の10月(9月)には仏国ともそれぞれ同様の条約を締結しました。これが「安政の五カ国条約」と呼ばれるもので、いずれも貿易章程が附属され日米通商条約とほとんど変わらないものでした。
 1863年1月の兵庫開港は、朝廷の反対や国内情勢から困難となり、幕府は1年がかりでイギリスやフランスなど欧州諸国を回って粘り強く開港延期の交渉を行いました。その結果、兵庫開港は5年延期の1868年1月1日となりました。
初代庁舎
 初代神戸税関庁舎の模型(広報展示室)

網屋吉兵衛と勝海舟

 網屋吉兵衛は、兵庫や神戸に入港する船が、わざわざ讃岐の多度津まで修理(船底を焼燻し、貝や船食虫の付着を防ぐ)に行く不便を解消するため、神戸に船たで場を作りたいと考え、家業の呉服雑貨商をしながら海流や潮の干満、工法等を長年研究していました。吉兵衛は、61歳で家業を息子に譲った後、役所で工事の特許をとり、私財全てを投じて、神戸村の安永新田(生田川尻西)に船たで場を造る工事に取りかかりました。
 葦の茂る湿地帯に入江を造る難工事は、土砂崩れや台風に悩まされながらも、3年後の1855年4月(安政2年3月)、東西110m、南北90mと50mの大小2つの船たで場は完成しました。神戸港開港の13年前のことです。
 吉兵衛の船たで場を高く評価したのが幕府海軍奉行並の勝海舟でした。咸臨丸艦長として太平洋を横断した勝は、諸外国に対抗するには海軍を造ることが重要と考え、京に近く港として優れたこの地に摂海防衛の拠点、海軍操練所を造り、優秀な人材(乗員)を養成しようとしていました。
 1863年6月(文久3年4月)、摂海防衛のため西摂海岸を巡視した18歳の将軍家茂が安永新田に上陸して、土地の一古老である78歳の吉兵衛に面会し、船たで場建設を労い、開港地として神戸がいかに優れているかを聞きました。吉兵衛と将軍が会った翌日、勝海舟は「神戸海軍造艦所御取御用並に摂海防御掛」の辞令をもらい操練所開設の道が開きました。
 1864年6月(元治元年5月)、吉兵衛の船だて場とその東約1万7千坪を用地にドックや教練場が造られ、練習船として観光丸、黒竜丸の2隻の軍艦も配備され、神戸海軍操練所が開かれました。操練所は、兵学校と機関学校、工廠を兼ね、一級の指導者のもと海軍の基礎は固まるかに見えましたが、1年も経ない1865年3月(慶応元年3月)に閉鎖となりました。勝海舟を慕い、全国から集まった塾生は勤皇・佐幕入交じり約200人。塾頭の坂本竜馬、後の外務大臣陸奥宗光、日清戦争を勝利に導いた伊藤佑亨など多くの人材を輩出しました。
 この船たで場、操練所跡が整備され、開港時唯一の波止場(東西約110m、南北約130m)となり、敷地内に運上所(ビードロ屋敷)や倉庫が建設されました。操練所の建物(教場)は開港後暫くの間、英領事館として使われました。
網屋吉兵衛の顕彰碑の写真 海軍操練所跡碑の写真  
 網屋吉兵衛の顕彰碑             海軍操練所跡碑

神戸税関発祥の地碑

 神戸港の開港とともに設置された運上所は、神戸外国人居留地の東南、現在の神戸地方合同庁舎(神戸市中央区海岸通)のある場所に建てられました。
 当時としては超モダンな和洋折衷の広壮な建物(1階136坪、2階120坪の2階建)で、特にその窓にはめられたガラス板は、日光に反射してキラキラと輝いたので紙障子しか知らなかった当時の神戸市民をたいそう驚かせました。この建物は、「ビードロ屋敷」、「ビードロの家」と呼ばれ、多くの見物人を集めたと伝えられています。(図面等の資料は残っていません。)
 開港業務が軌道にのってきた1872年(明治5年)頃にはこの建物も手狭となり、1872年3月(明治5年2月)改築工事に着工しました。1873年(明治6年)12月に完成した新庁舎は、石造2階建で1階2階とも各160坪、海に面する正面に菊の紋章がさん然と輝く立派な庁舎でした。
 神戸税関では、運上所の開設130年目にあたる1997年(平成9年)11月、神戸港の更なる未来への発展という思いを込めて、神戸税関発祥の地、神戸地方合同庁舎の南西角に記念碑を建立しました。
神戸税関発祥の地碑の写真 初代神戸税関庁舎  
 神戸税関発祥の地碑             初代神戸税関庁舎の写真

伊藤町

 神戸市中央区(東遊園地の西側)にある伊藤町という町名は、初代兵庫県知事伊藤俊輔(のちに博文)にあやかってつけられました。
 運上所時代、現在の税関長にあたる運上所長官が正式に置かれたのは1872年8月(明治5年7月)で、それまで幕府時代は兵庫奉行、維新後は兵庫鎮台総督をはじめ兵庫県知事に至る地方長官が中央の外国事務局及び外国官等の各職を兼務していました。初代兵庫県知事となった伊藤俊輔(博文)は、1868年7月12日から翌年5月21日までの間、神戸運上所長官(現在の神戸税関長)でもありました。
 伊藤俊輔(博文)は、それ以前にも神戸と深くかかわっています。新政府の参与兼軍事参謀兼外国事務取調掛として神戸に派遣された東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)が神戸運上所を開局し、その基礎を固めますが、その実務面を担当したのは当時判事だった伊藤俊輔でした。
伊藤俊輔 伊藤町筋1 伊藤町筋2  
 伊藤俊輔(博文)             伊藤町筋

 (参考)伊藤俊輔(博文)までの運上所長官(神戸税関百年史)   
柴田剛中(兵庫奉行)慶応3年12月7日から4年1月9日(1868年1月1日から1868年2月2日)   
東久世通禧(兵庫鎮台・裁判所総督)慶応4年1月15日から3月19日(1868年2月8日から1868年4月11日)   
醍醐忠順(兵庫裁判所総督)慶応4年3月19日から5月23日(1868年4月11日から1868年7月12日)   
伊藤俊輔(初代兵庫県知事)慶応4年5月23日から明治2年4月10日(1868年7月12日から1869年5月21日)

神戸市立博物館

神戸市立博物館の写真
 神戸市立博物館は、1935年(昭和10年)に建築された旧横浜正金銀行神戸支店を増改築したもので、2007年(平成19年)11月に商業貿易港として発展し続ける神戸港の歩みを物語る近代化産業遺産群に認定されています。
 6つの常設展示のひとつ「開港をめぐって」では、開港にいたるまでの様子と開港後の外国人居留地の実情などを絵入りのロンドンニュースや居留地の模型などにより概観できます。
 明治時代の居留地を再現した模型には、居留地の右下(東南部)に、初代神戸税関庁舎が見事に再現されています。庁舎の東側には貨物検査場らしき平屋の建物、西側には、建て増しした2階建庁舎もあります。初代庁舎の写真も展示してあります。

三宮神社(神戸事件)

 1868年2月4日(慶応4年1月11日)、神戸事件は起きました。
 2月4日(1月11日)午後2時頃、摂津西宮警備のため西国街道を東へ急いでいた備前池田藩家老の隊列が居留地北側の三宮神社前に差し掛かったとき、隊列を横切ろうとした仏米水兵と揉み合いとなり怪我を負わせました。
 負傷した水兵は英領事館に駆け込み、英公使パークスは直ちに各国軍艦から陸戦隊を上陸させて備前藩を追撃、備前藩はかろうじて摩耶山中に逃げ込みました。外国公使団は、居留地周辺の旧生田川から宇治川筋までを占領下において、停泊中の各藩軍艦6隻を神戸沖で抑留し、京の新政府に対し抗議文を突きつけました。
 この事件は、新政府が6カ国公使(※)が駐在している兵庫に勅使を派遣し、各公使に天皇親政を通告する準備をしていたところに起きました。事件処理の任務も加わった勅使には東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)が選ばれました。
 朝廷は、東久世勅使に薩摩藩家老を副使に付けて兵庫に派遣しました。2月7日(1月14日)に兵庫に到着した勅使一行は、翌日、運上所で天皇の勅命を伝えることとなりました。
 1868年2月8日(慶応4年1月15日)正午、衣冠束帯姿の東久世勅使は、運上所において6ケ国公使に対し、天皇親政の詔(国書)を伝えました。各国は混乱回避に繋がる天皇親政を歓迎し、会見はうまくいきました。神戸の警備は薩長が責任を持つということで外国隊は引き揚げ、抑留された軍艦6隻も返還され、神戸事件は別途協議となりました。
 東久世通禧は、公使達の要請で1868年4月(慶応4年3月)まで兵庫に留まり、兵庫鎮台総督、兵庫裁判所総督として兵庫・神戸の内外事務を統率し、江戸から明治の橋渡しに尽力しました。
 天皇が諸外国に出した初の国書の舞台が神戸、しかも神戸税関の前身、運上所だったのです。

 (注)6カ国公使とは、フランス公使ロッシュ、イギリス公使パークス、イタリア公使トウール、アメリカ公使ファンケルボルク、プロシア(北東ドイツ)公使ブランド、オランダ総領事ブロックです。
  三宮神社の写真 史跡神戸事件発生地  
    三宮神社                  史跡神戸事件発生地(三宮神社)

近代化産業遺産

 商業貿易港として発展し続ける神戸港の歩みを物語る近代化産業遺産群

 神戸港の港湾施設群(神戸港新港第1突堤、神戸港新港第2突堤、神戸港新港第3突堤、メリケン波止場)

 神戸税関本関

 旧居留地煉瓦造下水道

 中央区海岸通の商業ビル群(海岸ビル、神港ビル、神戸朝日ビルディング(旧神戸証券取引所)、 旧居留地15番館、旧横浜正金銀行神戸支店(現神戸市立博物館)、 旧三菱銀行神戸支店(現ファミリアホール))

 神戸港周辺の銀行ビル群(旧ナショナルシティバンク神戸支店(現大丸神戸店南第1別館)、旧第一銀行神戸支店(現みなと元町駅))

突堤
    神戸港新港第1突堤、第2突堤、第3突堤

波止場庁舎下水道
メリケン波止場神戸税関本関庁舎旧居留地煉瓦造下水道
海岸神港神戸朝日
海岸ビル神港ビル神戸朝日ビルディング
(旧神戸証券取引所)
15番館旧横浜正金旧三菱銀行
旧居留地15番館旧横浜正金銀行神戸支店
(神戸市立博物館)
旧三菱銀行神戸支店
(ファミリアホール)
カスタム君旧ナショナルシティバンク旧第一銀行
 旧ナショナルシティバンク神戸支店
(大丸神戸店南第1別館)
旧第一銀行神戸支店
(みなと元町駅)

おわりに

 神戸税関は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の神戸港開港と同時に設置された運上所を前身とします。1872年12月28日(明治5年11月28日)に全国の運上所を税関という呼称に統一することが決定され、1873年(明治6年)1月4日に神戸運上所を神戸税関と改称し、神戸税関は誕生しました。

参考文献

神戸税関編集(1931)「神戸税関沿革略史」神戸税関発行
神戸税関編集(1969)「神戸税関百年史」神戸税関発行
読売新聞神戸支局編(1966)「神戸開港百年」高尾清発行 中外書房
「近代化産業遺産群33」
<http://www.metigo.jp/press/20071130005/isangun.pdf>2012年6月1日アクセス
「神戸壁紙観光写真集 東遊園地とフラワーロード・旧生田川」
<http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/higashiyuenchi.htm>2012年6月1日アクセス
「神戸市立博物館」
<http://www.city.kobe.lg.jp/culture/institution/museum/main.html>2012年6月1日アクセス